愛を求める姿にしか見えなくなった。
出来事
保育所でいつもと違う先生が担当になり、息子が昼寝をしなくて、その先生に怒られ、叩かれたということを息子から聞く。
感情
怒り
価値観
暴力はいけない、(他人の)子供を叩くべきではない
価値観の検証
結局これも自分の姿だった。夜中にかゆい、かゆいと言って寝ない息子に対して、早く寝なさいと怒り、叩くこともあった。自分がしていることを客観的に見せていただいたことに気づく。息子へ申し訳なかったという思いが溢れた。
他人が叩こうが、自分が叩こうが、息子が受ける痛みは同じ。親は良くて、他人はいけないなどという理由はない。
「寝ないから叩くとは何事だ!」「寝ないのを寝かせることが役割だろ!」その保育士さんに湧き上がった思いはすべて自分に当てはまるものだった。
それに気づいてもまだ何か引っかかるものがあった。妻が叩いたとしても反応しない。やはり他人が叩いたということに関してまだ何かが残っている。
他人と妻や親類など近しい人との違いは何なのだろうと考える。
目を閉じてそれに思いを巡らす。結局、それは自分の認識、記憶でしかない。親だとただ「思っているだけ」だと気づく。赤の他人が現れて私の親だと主張し、何らかの証拠となるそれらしい書類があったとしたら、おそらくそれを信じてしまうのだろう。
他人も親も子供の本質的な違いはないのだと気づく。すべての人の存在が等しいのだと気づく。
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息子のかゆみについて、「痛いから、さすって」なら、おそらく怒りや不満は湧き出ないのではないかと感じた。
自分のかゆみに対する意義を考察する必要がある。
かゆみとは、自分にとっては「本来はなくてもよいもの」「余計なもの」「煩わしいもの」などの意味があるように思う。
自分にとって「本来なくてもよいもの」は何なのだろうか?面倒だと受け入れていないものはないだろうか?
それは近所づきあいなどの人間関係や親類との付き合いなど、にも関係するように思う。積極的にする必要はないと思うが、こちらもあえて心を閉ざす必要もない。今までは、自分とは関係のない人だから、あるいはどこかで住む世界が違うから、などという傲りのようなものがあったかもしれない。そこを改めようと思う。
また子育て自体もどこかで煩わしいものに感じていた。掻いてほしいという要求は、息子のもっと触れ合ってほしいという要求にも取れる。
それに気づいてから、子供たちの触れ合いを意識的に増やすようになった。本気で向き合うと、煩わしいという思いはなく、ただ色んな喜びや発見があることに気づいた。息子の執拗なこだわりさえも、愛を求める姿にしか見えなくなった。
